2022年


ーーーー2/1−−−− もぐさの知名度


 
時々思い出したようにお灸をやる。全身の調子を整える三里のツボの他に、腰痛のツボ、胃腸のツボなど。明瞭な効果はなかなか感じられないが、気付かないうちに効いているという、マイルドな効果はあるように思う。

 少量のもぐさを指に取って円錐状に丸め、ツボの位置に置き、線香で火を付ける。それを一ヶ所につき3回行う。ツボのポイントは、以前鍼灸院の先生から教わったものもあるし、ネットで調べて知ったものもある。正確にツボの位置を取れているかどうかは確信が無い。だから明瞭な効果が無いのかも知れない。それでも、キュッと身が引き締まるような熱さと、線香の煙のかぐわしい香りは、体に良いことをしているという気持ちにさせてくれる。

 江戸時代の旅人は、お灸道具を携行し、宿に着くと灸をすえて疲れを取ったという話を聞いたことがある。それを真似してみたことがあった。北アルプスの山小屋に泊まったとき、夕食前の囲炉裏端に陣取ってお灸をすえたのである。これはなかなかのパフォーマンスであった。居合わせた登山者は一様に驚いたふうで、「何をしているんですか?」などと質問した。私は「お灸ですよ。脚の疲れを取るのに効果があるんです」と答えた。中には年配者もいたが、彼らにとって、もぐさを丸めてすえるお灸は、馴染みが薄い事のようであった。

 もぐさを使い果たしたので、市内の大型薬局へ買いに行った。この店は、薬の他に化粧品や食品、飲料も売っている。特定の日に卵を安売りすることで知られており、その日にはレジに行列ができる。店に入り、商品棚の前で作業をしていた店員に、もぐさの売り場を訊ねた。若い女性の店員は怪訝そうな顔をした。そして、「それって、健康食品か何かですか?」と問い返した。もぐさを知らないのである。私が「お灸に使う物です」と答えると、プイッと後ろを向いて、売り場へ連れて行ってくれた。台紙の上に一回分のもぐさが乗っている、扱い易いお灸道具が主流商品のようで、そういうものばかりが棚に並んでいた。ひょっとしたら、もぐさは置いていないのかと思ったが、よく探したら隅の方に発見した。やはりもぐさはマイナーな存在なのだと感じられた。

 百人一首の中に、「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思いを」という歌がある。さしも草というのはヨモギの別名。ヨモギはもぐさの原料であり、伊吹山が有名な産地だったようである。すでに平安時代にはお灸が使われていたのだと思われる。調べてみたら奈良時代に中国から伝えられたとのことだった。




ーーー2/8ーーー  素敵なキャッチボール


 
一昨年の6月、母の看取りで東京四谷の姉のアパートに滞在した。日中の空いた時間、近所を散歩した。赤坂迎賓館の北側に位置するエリヤである。地形に起伏があって、気まぐれにブラブラ歩いても面白く、気晴らしになった。

 公園があった。木立の中の遊歩道を下ると、グランドに出た。子供たちが走り回ったり、サッカーなどボール遊びをしていた。グランドの縁の沿って半周したら、グランドの端の長い一辺を使って、高校生くらいの男子が二人でキャッチボールをしていた。これがなかなか見ものだった。

 二人を隔てる距離は60メートルくらいだったか。こういうことに疎い私には、ずいぶん長い距離に感じられた。その距離を飛び越えて、放物線を描いたボールは、吸い寄せられるように相手のグローブに納まる。その正確さに驚いた。それを淡々と繰り返していた。両者とも身のこなしによどみが無い。投げるフォームは、美しさすら感じさせた。高校の野球部員なのだろうと思った。どう見ても、普通のお兄さん方では無い。

 私は延々と繰り返されるキャッチボールを、飽きずに眺めた。たまたま、小学生くらいの子供たちが、二人の中間を横切るようにして通りかかった。すると、それまで一定のリズムで行われていたキャッチボールが、ピタリと止まった。そして子供たちが通り過ぎ、二人の間に誰も居なくなると、また再開された。この二人の技量ならば、間に人が入ったとしても、球筋が乱れることは無いだろう。ましてや、人にボールをぶつけてしまうことなど、おそらくあり得ない。ボールは高い軌道を描いて飛んでいるからだ。それでも、万一の事故を避けるため、中断したのであろう。その配慮に、鍛え抜かれたスポーツマンを感じた。やはり普通のお兄さん方ではなかったのである。





ーーー2/15−−− 5対1の理論


 
「人は何故悪い事をするのか」という論文を目にしたことがある。その興味深いテーマの詳細については、ここでは触れないが、その中に記された一つの理論は、これまた興味深いものであった。それは、5対1の理論。

 人が感じる悪い事と良い事のインパクトの比率は、5対1だというのである。悪い事は良い事の5倍強く感じるということ。言い換えれば、1つの悪い事は、5つの良い事と釣り合うということである。

 例を挙げてみよう。旅行に出たとする。良い事、楽しい事が4つあったとしても、悪い事、嫌な事を1つ経験すれば、その旅行の印象は悪いものとなる。反対に、良い事が6つあれば、悪い事が1つあっても、楽しかった旅として記憶に残る。もちろん5対1は比率であるから、10対2、50対10でも同じことである。

 人間関係にも当てはまる。相手から5回良い事をされても、1回嫌な事をされれば帳消しとなる。逆に、5回親切にしてあげても、1回恨まれるような事をすれば、親切にしたことは相手の心に残らない。

 5倍と言う比率が、なかなか重い。容易には挽回できない値である。何故そのようにインパクトに差があるのか。それは動物が生存していく上で、嫌な体験を強く心に留めることが、生命の安全につながるからとのこと。命の危険を感じるような嫌な体験を、すぐに忘れてしまうようでは、生き永らえないということである。そういう心のメカニズムがあるから、些細な事であっても、嫌な事は大きなインパクトで響くのである。

 親しい間柄の人間関係では、とかく気が緩んでぞんざいな接し方に陥りがちである。迂闊な物言いや粗雑な態度で、知らない間に相手を傷つけることもある。その反面、相手を喜ばす事、幸せな気持ちにさせる事など、なかなか思い付かないし、実行に移せない。無意識のうちにやらかしてしまう悪行の5倍に当たる善行を、意図的にやらなければ釣り合わないのだから、たいへんである。

 当人が気付かないうちに、他人から疎んぜられ、人が寄り付かなくなったケースを、過去にいくつも見た事がある。それは、この5対1の理論から外れた行動が原因となっているように思い当る。人間関係には、十分過ぎるくらい気を使う必要がある。善い事が出来ないなら、悪い事をゼロにするよう努めるしかない。目の前の相手に対して、常に行き届いた誠意と気配りを持って接する事が、相手にとっても、自分にとっても、穏やかな気持ちで人生を過ごすための、絶対条件なのではあるまいか。




ーーー2/22−−− 珍しい日付


 
今日は2022年2月22日である。0が一つある他は、全て2である。このような日付は珍しい。

 過去に有っもので、最も立派なのは1111年11月11日であろう。8つの数字が全て1である。もっともその当時は、国内で西暦が使われていなかったから、話題に上ることも無かっただろうが。その日を最後に、0の他は同じ数字だけという日は、特に同じ数字が6ヶも入る日は、今日まで無かった。およそ910年ぶりということになる。そして次に6ヶ入りが現れるのは2202年2月22日である。180年先だから、現在生きている我々とは無縁のことである。

 今日の記念に、新聞の日付の欄でも切り抜いておこうか。